日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第9章 ~1904年3月、第9回総選挙~

第9章 ~1904年3月、第9回総選挙~

立憲政友会5増の128議席で3分の1強、憲政本党約10の91議席で4分の1弱、会派自由党23、帝国党17、無所属120、計379。

※以下とりあえず本章に限り、立憲政友会の離党者達が結成した自由党を、以前の自由党と区別するために「会派自由党」と称する。

※会派の離合集散について、個々の議員の動きについては、『中小会派の議員一覧』参照。

 

①選挙結果

総選挙は、日露開戦(2月)直後に行われた。日清戦争の時と同じく、政争は静まった。しかしやはり日清戦争の時と同じく、対立構造は温存された(日清戦争時は自由党系・中立実業派対、対外硬派、日露戦争時は自由党系・改進党系・新民党対、吏党系・中立実業派・会派自由党)。立憲政友会と憲政本党が現職優先の選挙協力を行ったこともあり、憲政本党が少し増えた程度で、大きな変化はなかった。つまり戦争が終われば、再び政府と衆議院の多くが対決する可能性が高かった。またこの総選挙では、北海道の、札幌区外、小樽区外、函館区外の3つの1人区で初めて総選挙が行われ、衆議院の定数は376から379となった。

 

②甲辰倶楽部、無名倶楽部→同攻会の結成

1904年3月、旧中正倶楽部系、旧交友倶楽部系、他の実業派の無所属議員が中立(事実上は山県-桂系寄り)の甲辰倶楽部を結成した。同志研究会系や、憲政本党を脱していた河野広中は同月、無名倶楽部を結成した。無名倶楽部は1904年3月、第20回帝国議会の閉会と共に解散し、同年11月、同攻会を結成した。これは事実上の改称であった(いずれも途中入会であった立川雲平、山下重威、坂本金弥の3名が参加しなかった以外は、解散時の無名倶楽部と同じ顔ぶれであった)。

 

③正副議長選挙と議会の変化①

第20回帝国議会(臨時会、1904年3月)では、立憲政友会と憲政本党が連携を維持し、衆議院議長に立憲政友会の松田正久(九州派)が、副議長に憲政本党の箕浦勝人(立憲改進党出身)が選ばれた。立憲政友会が予算、請願、懲罰委員を取り、憲政本党が全院、決算委員長を取り、立憲政友会は独占をやめた(第19議会はすぐに解散となったため、委員長選が行われていない)。憲政本党では、立憲政友会との連携に否定的な、反主流派の議員が多くおり、憲政本党が譲る側であった(第2党なので当然だが)、議長選挙において、彼らは副議長候補に名の挙がっていた、自党の鳩山和夫に投票した。第3会派以下からの票もあり、鳩山は松田に35票差と迫った。1904年11月開会の第21回帝国議会(~1905年2月)から、衆議院の議席が会派別となった(形の上では議長が決めることとなり、議長が各会派の届出に応じるのが慣例となる)。また日露戦争の功労者が受爵するため、有爵者数が増加する貴族院では、伯、子、男爵議員を計143名以内(内訳は各爵位の総数に比例―それまでは各爵位の5分の1が定数であり、多額納税者議員は15分の1であったが府県ごとに互選―)、それとのバランスで勅選議員を125名以内とする、貴族院令の改正がなされた。第20回帝国議会では、日露戦争に関する非常特別増税に関する諸法案が衆議院を通過し、成立に至った。その内容は、地租、営業税、所得税、砂糖消費税、醤油税、登録税、取引所税、狩猟免許税、鉱区税、各種輸入税の増税、塩、毛織物、石油、絹布の消費税の新設、民事訴訟の印紙の引き上げ、そして煙草製造を政府の専権とし、販売も統制するものであった。衆議院では、塩、絹布の消費税を取りやめ(毛織物消費税の取りやめは否決)、砂糖、石油の消費税を上げて、終戦翌年の末日に法を廃止するなどの修正が加えられ、諸法案が成立した。

 

④有志会の結成

1904年11月、第21回帝国議会開会を前に、田口卯吉、島田三郎、福地源一郎(1982年に立憲帝政党を結成したが翌年解散、第9回総選挙で初めて衆議院議員となっていた)などの、市部選出の実業派等の無所属議員達が、有志会を結成した。

 

⑤対露戦勝による変化

日露戦争は、1905年9月、日本の勝利に終わった。戦争の長期化を避けるための賠償金なき講和(ポーツマス条約9月調印、10月公布)は、現実的なものであったが、戦時を耐えてきた国民にとっては不満の残るものであった。同志研究会の系譜が志向していた、自らと2大政党の合流、あるいは吏党系や会派自由党の、第1次桂内閣支持派の合流といった、政党、会派の再編は進展しなかった。対外強硬派を党内に抱える憲政本党は、立憲政友会と連携していたこともあり、講和条約反対運動に、党として踏み込むことはなかった。このため運動の中心は、対外強硬派の中でも、同志研究会の系譜と、それに近い勢力が担った。河野広中(かつての自由党、憲政本党を離党)、小川平吉(立憲政友会を離党)、大竹貫一(改進党系を脱して新潟進歩党を結成し、交友倶楽部に参加、第9回総選挙後は無所属となるも、第22議会開会を機に旧同攻会-同志研究会系-と合流して政交倶楽部を結成)という、2大民党の離党者などである(河野と小川は共に同志研究会系)。彼らが日比谷公園で開いた大会に集まった民衆は暴徒と化し、内務大臣官邸や外務省、警察署、交番、桂内閣寄りで講和を支持した国民新聞社を襲った。日比谷焼打ち事件である。憲政本党の大石正巳は、立憲政友会の原敬に、桂と両党(2大政党)との挙国一致内閣、それを固辞された場合の提携拒否を提案した(『原敬日記』第2巻続篇260・8月1日付、271頁)。しかし原は桂と、講和条約支持と引きかえに、西園寺立憲政友会総裁を後任の総理にすることで密かに一致した。

 

⑥会派自由党の分裂、大同倶楽部、政交倶楽部→猶興会の結成

会派自由党では、土佐派が板垣を戴く新党の結成を模索していた。土佐派と関東派の間には溝があり、関東派等は1905年3月に会派自由党を離脱、やはり2大政党に劣勢を強いられていた帝国党、甲辰倶楽部、有志会の一部、無所属の一部と12月に合流、大同倶楽部を結成した。その議席数はあと少しで憲政本党と並ぶほどのものとなった(大同倶楽部結成時86議席、同日の憲政本党97議席)。会派自由党(残部)は、1905年3月中にも解散しており、土佐派は1906年1月に立憲政友会に復党した。第22回帝国議会開開会後の1905年12月、同攻会(2月に第21議会閉会と共に解散していた)、有志会(解散状態であった)の一部、元交友倶楽部の大竹貫一と萩野左門、大同倶楽部離脱者の松井源内、甲辰倶楽部を離脱していた浜田国松によって、政交倶楽部が結成された。民党的な色彩の強かった同派は、積極財政に反対した。そして1906年3月、第22議会の閉会と共に解散するが、同年12月、第23回帝国議会開会を前に猶興会を結成する(離脱していた竹内正志を除く政交倶楽部全員と憲政本党を離党した中西新作)。

 

⑦第1次西園寺内閣の成立と立憲政友会の政権獲得、議会の変化②

第22回帝国議会(1905年12月~1906年3月)会期中の1906年1月、戦時も経て長期となった桂内閣に代わり、第1次西園寺公望内閣が成立した。立憲政友会と協力関係にあった憲政本党は与党になれなかった。桂にとって、民党連合に政権を明け渡す形での政権交代は認められるものではなく、新内閣はあくまでも、薩長閥(山県-桂系)と立憲政友会の連合の一種でなければならなかった(軍部大臣などを出して内閣に協力し、影響力を持ち、山県-桂系主導の内閣になった時には、第1次桂内閣末期のように、立憲政友会の協力を得る)。実際に、第1次西園寺内閣は、与党立憲政友会が衆議院の過半数に遠く届かない中(過半数まで約50であったが、政権獲得後の旧自由党土佐派の3名や大同倶楽部離脱者2名の入党で約40に)、山県-桂系-大同倶楽部との協力体制となった。また同内閣は、時間の問題もあり、第1次桂内閣の政策を継承した。憲政本党の政権参加は叶わなかったが、同党と近い外交官出身の前衆院議員(同志研究会)、加藤高明が外務大臣に就いた。加藤は改進党系(大隈重信)に近い三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎の長女の婿で、大隈が外務大臣であった時に秘書官を務めた。第4次伊藤内閣でも外務大臣を務めており、立憲政友会―伊藤博文―とも近く、薩長閥には批判的であった)。立憲政友会からの入閣も、西園寺総理の他は、原敬が内務大臣、松田正久が司法大臣として入閣するに留まった(両者とも衆議院議員)。貴族院からは、農商務大臣に無所属の貴族院議員(松岡康毅)が入閣した(西園寺総理も純粋無所属の侯爵議員であった)。立憲政友会結成以前からの自由党系は、松田1人であった(第4次伊藤内閣では星亨と松田と、伊藤系ではあったが自由党系の憲政党に属していた末松謙澄)。ただし原の姿勢は星の後継者だと言えるものであった。憲政本党総理の大隈は、政党中心の内閣が出現したことを評価した。政交倶楽部は野党の立場を維持した(同派所属の河野広中は、政党が中心の内閣であることから好意を持ったが、期待を裏切られた―『河野磐州伝』下巻712-713頁―)。立憲政友会が桂と取り引きをして政権を得て、山県-桂系の影響を排除しなかったことは、同派の姿勢と相容れないものであった。しかしそもそも、立憲政友会が講和条約に反対しなかったことで、双方は相容れないものとなっていた。桂非政党・閣僚中心内閣と、西園寺立憲政友会内閣が交互に政権を担当した時代を、桂園時代と呼ぶ。これは両者の協力体制と言うよりも、政権の安定した基盤、あるいは次の政権を欲する両者の、駆け引きの結果であった。入閣した立憲政友会の松田衆院議長の後任に、同党の杉田定一が選ばれた(大日本帝国憲法下の議会は、国権の最高機関ではなく、衆院議長を辞して、行政に携わることのできる内閣に入閣することは、不自然ではなかった)。この際立憲政友会は、大同倶楽部に協力を求め、第1会派が議長、第2会派(この時は憲政本党)が副議長を出す(これに他党派も協力する)ことは、慣例となるかに見えた(第12回総選挙で、野党立憲政友会が第2党になった時、与党が政副議長を独占したことで崩れた)。それまで衆議院では、議長の指名により、類似法案をまとめて審議する特別委員会の委員は、各派に比例配分されるのが慣例となっていた。ただし第21議会に限り選挙で決め、2大政党が独占した。常任委員会委員は、各部で選挙していたため、抽選で決まる各部において、多数となる可能性が高い第1党、または協力して多数派を形成する党派に有利になる傾向があったが、第21議会ではこれも、2大政党の独占状態となった(2大政党以外の委員もわずかにいた―本章2大民党制第3極(⑧)~日露戦争後の2ブロック化~の註参照―。それまでにも2大政党が組んだ場合などに近いことはあったが、占有率は過去最高であった)。しかし第23回帝国議会から、ほぼ各会派の議席数に応じた配分が行われるようになった(各部内の、各会派出身の議員達ごとに選挙が行われ、その部における会派の候補者を決める。こうして出そろった候補者達が当選するようにする)。その委員長については、立憲政友会結成後、結成時過半数を上回っていた同党が独占していたところ、離党者が続出して同党が過半数を割っていたこと、第2党の憲政本党と協力関係になっていたことから、③で述べたように、第20議会では2大政党で分け合った。

 

⑧立憲政友会の政権運営と衆議院の2ブロック化

第1次西園寺政友会内閣は、立憲政友会がそれまで(憲政本党とともに)唱えていた方針と反する点が多いにもかかわらず、産業振興、軍備拡張などの、桂前内閣の積極財政を継承した。これは戦後の一時的な好景気が許したものであり、本来積極財政志向であった自由党系(議会開設当初までさかのぼれば別だが)、つまり立憲政友会は、これを支持することができた。憲政本党、政交倶楽部は、公債の元利償還のための減債基金の設立、非常特別税の継続、鉄道国有化という、内閣の政策に反対した。鉄道国有化については、野党の憲政本党、政交倶楽部のみならず、加藤高明外務大臣も、民間事業の既得権を侵害すること、私鉄買収の財源に、日露戦争の影響で増えた公債をさらに発行することへの懸念から、反対をした(加藤は政交倶楽部へとつながる、同志研究会の出身であった)。加藤は3月に外務大臣を辞任した。桂は軍事的な面から国有化を志向していたが、財源の問題もあり、貴族院でも反対の議員が少なくなかった。結局、買収する私鉄を減らして期限も延ばすことで妥協、法案は成立した。この第22回帝国議会において、大同倶楽部は立憲政友会と、政交倶楽部は憲政本党と同様の投票行動をとることが多く、衆議院は2ブロック化した。第23回帝国議会(1906年12月~1907年3月)で、立憲政友会の原内務大臣が町村再編に絡め、かつて山県有朋が設置した郡(府県と町村の間に位置する)の、廃止法案を提出した。これは、仕事が増えていく町村の合併、強化と一体的なものであり、それが実現すれば、町村の上に位置するものの、伝統に根付いておらず独自の税収もない、つまり実態に乏しい郡は不要だという考えに基づいていた。しかし、山県系に代わって、立憲政友会系の地方での影響力、組織を強化する狙いもあったと考えられる(「山縣系一擧に倒し」としている『原敬日記』第3巻17頁―1907年1月14日付―、山県系の勢力を試すための法案提出であり、否決されても貴族院が世論に反するものだとし得るとする同37頁―同3月10日付―)。この法案は第22回議会にも出されており、衆議院でほぼ全会一致で可決されたものの(『原敬日記』第2巻続篇321頁-1906年3月14日付に全会一致とある-、花井卓蔵『軍国議会史要:第二十・二十一・二十二議会の経過』125頁)、貴族院では審議末了となっていた。それが第23議会では、自由党系としてもそうだが、伊藤が離れた状態でも与党が板に付いてきた立憲政友会に対して、警戒心を強める山県系に連なる、大同倶楽部が反対に転じた。山県は郡制廃止を、地方行政、公共事業、警察を管轄する内務大臣を立憲政友会が出す、同党中心の内閣で行うことについて、特に否定的であった。市町村長に対する立憲政友会の影響力が強まることなどを警戒していたのだ。原は貴族院対策として、郡役所は存続させるとした(当初は廃止する考えであったようだ―三谷太一郎『日本政党政治の形成』144~145頁―)。立憲政友会は貴族院にも浸透を図っており、今度は同院で可決されることを、山県は危惧していたと考えられる(原は各派に工作をしかけており、木曜会と土曜会には有力な賛成派もいた―同153~154頁―。採決でも否決はされたが、108対149と、それなりに良い勝負であった)。立憲政友会の裏切り(政権に参加させてもらえなかったこと)に反発しており、生き残りのためにも同党に対する劣位を挽回しようとしていた憲政本党は、郡役所の存続を問題視して、反対に転じた。猶興会もこれを問題にしていたため、法案の衆議院可決は難しくなった。しかし猶興会は、法案を支持した上で、郡役所を廃止する決議案を提出した。また、大同倶楽部の一部は原に切り崩され、賛成、棄権する議員が出て(もともと賛成の議員もいたと考えられる)、法案は可決された。そのような議員達は立憲政友会に移った。立憲政友会との協力関係を壊したくない桂は、大同倶楽部の動きに関与していないことを原に伝えていた。法案が否決された貴族院でも、多数派工作の中で、原の影響力は強まった。これに対抗して山県系も、憲政本党に接近した(大同倶楽部が憲政本党との連携に動いた)。貴衆両院とも、山県・桂系と自由党系(立憲政友会)が対峙する状況へと、変化し始めた。ただし大同倶楽部は、憲政本党と対外硬派として連携することには、否定的であった。アメリカで見られた日本人移民排斥の動きに関し、大同倶楽部は立憲政友会中心の内閣を追及はしても、反米的姿勢を採ることには否定的であった(1907年6月19日付読売新聞)。憲政本党は、郡制廃止等に対応を迫られるうちに、党を動かしていた犬養や大石と、立憲政友会に寄ろうとしており、同党を敵に回すような、大同倶楽部との連携に反対の要人、鳩山和夫との間に溝が広がり、鳩山は1908年1月に、単独で立憲政友会に移るに至る。

 

⑨揺れる憲政本党

立憲政友会と対立しないためにも、講和条約に強く反対しなかった挙句、その立憲政友会に切られた形となった憲政本党では、そのような事態を招いた執行部に反して、対抗的政界縦断(自由党系に対抗して薩長閥と組む)を試みる改革派が、以前から反主流派であった対外強硬派を中心に形成された。憲政本党は、政党中心の内閣である第1次西園寺内閣の成立を否定するわけにはいかなかったが、犬養、大石の2人の実力者が進めていた民党連携路線(立憲政友会と共に薩長閥から政権を奪い取ろうというもの)が失敗したことは確かであった。犬養は民党連合路線に未練を見せ、大石は立憲政友会1強の弊害を唱え、憲政本党の解散による、非政友会勢力の再編を考えた(犬養は党内で大隈に次ぐ実力者であり、党の路線変更は、民党路線の失敗を確認すること、つまり犬養の責任問題につながるものであった)。薩長閥にすり寄らない、純粋な政党内閣を目指す犬養ら非改革派(もともと主流派であり、本領派などとされることもあるが、非改革派で統一する)と、自由党系のように現実的(機会主義的とも言える)になって権力者(薩長閥)に近付き、与党入り、さらには、立憲政友会に代わって政権の中心を担い得る政党を目指す、改革派(箕浦勝人、武富時敏―元九州改進党、立憲革新党-ら)の対立が、憲政本党内で次第に表面化し、犬養と並ぶ実力者であった大石正巳が、改革派に転じた(ここでの「改革」は党の組織に関するものであり、政治スタンスを表しているわけではない)。憲政本党は立憲政友会に水をあけられ、よほど全国に支持、組織を広げなければ、第1党に返り咲くことは不可能であった。1907年1月、同党は、当時優勢であった改革派の主導で、積極財政を唱えるという、野党色を薄める政策転換を行った。これを機に大隈は、党の総理(党首)を辞した。それは薩長閥の要人など、総理大臣になり得る人物を党首に迎えたかった、改革派の望むことであった。同派は当時、大同倶楽部との連携を策した。憲政本党、猶興会に大同倶楽部を加えれば、衆議院の過半数を上回る規模となる。しかし進展がないまま、第23回帝国議会において、憲政本党は第1次西園寺内閣の予算案に賛成することになった。

 

⑩第1次西園寺内閣の動揺

1908年に入ると、アメリカの恐慌、戦後の好景気の反動によって、日本は恐慌に陥った。比較的順調であった第1次西園寺政友会内閣は、公債価格の下落という壁にぶつかった。第24回帝国議会(1907年12月~1908年3月)では、公債に頼る積極財政が行き詰まり、積極財政派の立憲政友会、憲政本党(改革派)、大同倶楽部の、結果としての協力体制にも暗雲が立ち込める中、立憲政友会が積極財政、軍部が軍拡を志向する中、信用を高めるための新規募債の中止、公債の償還が急務となった。このため政府は、1908年度予算案の編成に苦心し、閣議も容易にまとまらなかった。井上馨は軍事費削減を第1次西園寺内閣に勧告し、松方と桂は井上が同調した。こうして、陸海両軍の予算は削減され、鉄道、河川等の事業も繰り延べとなった。しかしそれで足りるものではなく、砂糖消費税、酒造税、麦酒税の増税、石油消費税(戦時の非常特別税として期間限定で設けられていた)の新設、煙草の値上げの方針が決まった。第1次西園寺内閣が立憲政友会の主張をひるがえし、増税を決断したのであった。予算案には桂も関わっていたため、大同倶楽部も賛成し、成立したが、実業界からの反発は強かった。臨時商業会議所連合会は増税反対、営業税の軽減、そして塩専売、通行税、織物消費税の「三悪税」の廃止を求めた。この影響、日糖事件(第10章参照)の影響により、憲政本党では積極財政を支持した改革派に代わって、より左の(野党色の強い)非改革派が主導権を取り戻した。猶興会は政府問責決議案を提出し、憲政本党だけでなく、山県-桂系の大同倶楽部も同調した。これは否決されたものの、わずか9票差であった。事業繰り延べに反した鉄道計画を立て、それを容認(蔵相)したために薩長閥要人の反発を招き、共に辞職した大蔵大臣と逓信大臣は、1908年1月より、それぞれ立憲政友会の松田司法大臣、原内務大臣が兼務したが、第24回議会会期終了日直前(3月)、松田は大蔵大臣となり、原は内務大臣専任に戻った。そして司法大臣には木曜会、逓信大臣には研究会から後任が採られ、貴族院における政権の基盤が強化された(西園寺総理を含めると4人の閣僚)。第24回帝国議会閉会後、衆議院は任期満了に伴う総選挙を迎えた(5月。任期満了による総選挙は第7回総選挙以来であり、2回目)。なお、第24回帝国議会において、松本君平らが普通選挙法案を提出したが否決された。松本は立憲政友会の所属であったが、これは同党の内部で理解を得て提出されたわけではなかった。

 

⑪政界革新同志会の結成

1907年3月、猶興会や同派と近い議会外の勢力により、政界革新同志会が結成された。同会は政治腐敗を憲政の一大危機と捉え、国民を覚醒するとした(『大国民』第27号-1907年3月5日発行-31頁)。憲政本党の犬養は、同会について「大體におゐて小生は其主意ヲ賛成スル」としつつ、既成政党を外さなくても改良はできるとした(『犬養木堂書簡集』83頁。しかし憲政本党は、統一性を欠いていた。

 

補足~貴族院会派~

実業倶楽部:1907年12月に結成された、多額納税者議員による会派。丁酉会の後身と言えるが、1907年の互選で再選され、かつ残留したのは1名のみであった。

有爵、高額納税者議員互選:1904年には7年ごとに行われる、3回目の選挙が行われた。男爵の数が増えていたために木曜会の議席が大きく増え、憲政本党と近い土曜会が減少した。他には、大きな変化はなかった。つまり、山県-桂系の幸倶楽部、山県-桂系に近い研究会の2強が維持された。実業倶楽部は丁酉会と比べると議席が少なく、間もなく1ケタとなった。

貴族院からの入閣:木曜会は、リーダー格であった千家尊福が立憲政友会に接近したことで動揺し、これは後の分裂につながる。しかし、山県系が茶話会と無所属(第1次)を中心とする幸倶楽部、そして研究会に強い影響力を持っていたため、子爵議員と対立して研究会を脱した男爵議員による木曜会は、立憲政友会に比較的寄りやすい勢力であった。だがそれでは数が少ないため、立憲政友会(原敬)は、最大会派の研究会との関係を重視した。こうして、関係の良くない研究会と木曜会から、1名ずつが1908年、第1次西園寺内閣に新たに入閣することになった。

 

補足~無産政党~

補足~中立派の再編~

補足~日露戦争のための増税と各党派~

補足~日比谷焼き討ち事件から政界革新同志会の結成まで~

補足~吏党系の拡大、大同倶楽部結成の経緯~

 

図⑨-A 立憲政友会の離党者の歩み

 

図⑨-B 憲政本党にかかる遠心力

 

野党の勝利2大民党制(準)与党の不振第3極(①)~第9回総選挙の結果~

1党優位の傾向(①)~意外と変わらないものである議席数~

縦断的再編優位政党の分裂(①)~高知県の異変~

(準)与党の不振(①)~排除される「ゆ党」~

新民党(①②)~同志研究会の発展~

第3極実業派の動き(①②)~市部選出議員~

第3極実業派の動き(②)~甲辰倶楽部の性格について~

2大民党制(準)与党の不振(③)~衆議院規則と「強者」~

野党の2択(③)~議長選挙と憲政本党~

第3極新民党(③)~露探事件~

第3極実業派の動き離党者の性質新民党(③他)~甲辰倶楽部の性格~

1列の関係新民党(③)~2大政党と新民党の、野党間の距離~:立憲政友会の大岡育造らが提出した、百三十銀行破たんを救済するため600万円を支出したことを不当とする決議案が、1905年1月18日に可決された。この際、同攻会の小川平吉の、政府の責任を問う旨を挿入する修正案は否決されたから、大岡の姿勢も、内閣に対してそう攻撃的なものではなかったと言える。同時に、同志研究会の系譜が、立憲政友会、憲政本党と比べて、野党の色(反薩長閥政府の色)が強かったことも確認できる。

1列の関係(⑤)~日清戦争後と日露戦争後~

1列の関係野党の2択(準)与党の不振(⑤)~吏党系等の2つの選択肢、キャスティングボートを握り続ける立憲政友会~

第3極実業派の動き2大民党制(②④⑥)~交友倶楽部の再結成失敗、有志会の結成と解散~

第3極実業派の動き(③④⑥)~市部選出議員の会合と有志会解散の背景~

1列の関係(⑤)~対露講和を契機とした薩長閥と自由党系との再接近~

新民党(⑤⑥)~対露講和と新民党~

世代交代(⑤)~山県、伊藤、板垣から桂、西園寺へ~

新民党(⑥)~「自由主義の最左派」としての新民党~

離党者の性質(⑤⑥)~立憲政友会の離党者達~

実業派の動き離党者の性質(⑤⑥)~第3極で増えた「政党人」~

(準)与党の不振(⑥⑦)~大同倶楽部の結成と吏党系の変化~

1党優位の傾向(⑥他)~3大勢力の特色における問題点~

1列の関係2大民党制(⑥⑦)~吏党系の拡大に対する改進党系の警戒~

1列の関係(⑦)~長い「桂園時代」~

1列の関係(⑦)~自由党系と組むしかない薩長閥、貴族院をなんとかしなければならない自由党系~

1列の関係野党の2択(⑦)~追い込まれた憲政本党~

連結器(⑦)~やはり失敗に終わる「連結」、そしてやはり接近する改進党系と新民党~

新民党野党の2択(⑦)~同志研究会系の姿勢~

(準)与党の不振(⑦)~難しい立場の吏党系~

野党の2択(⑨)~憲政本党大石の変化、再編の芽~

1党優位の傾向2大民党制帝政ドイツとの差異(⑦)~ヨーロッパと異なる展開~

1列の関係野党の2択(⑧⑨)~政友会中心の新内閣と各党派の位置関係~

2大民党制(⑧)~保守と自由の基本~:鉄道国有化を志向する自由党系を保守派、反対の改進党系を自由派と見ることが出来る。根本的な差異に乏しかった2大民党の系譜に、このような、比較的安定した政策上の差異があったことは重要である。国有化を志向するのは現在で言えば左翼的な勢力で、民営化志向こそ保守と見ることもできるが、初期の保守派と自由派の対立には、王の国家の支配を守る勢力と、自由な商売を求める実業家層という面がある。ヨーロッパでは左派政党の力がすでに大きくなっていた当時ではあったが、その善し悪しとは関係なく、日本は一度、この基本を踏まえる必要があったのだと言える。そしてそれは次章以降で見るように、実現することになる。

2大民党制第3極(⑧)~日露戦争後の2ブロック化~

2大民党制第3極(⑧)~第22回議会の採決に見る衆議院の2ブロック化~

2大民党制(⑧)~自由党系の積極財政回帰~

新民党(⑧他)~新民党の不統一~

新民党(⑥⑧)~猶興会の結成と岡山県での動き~

野党の2択(⑨)~憲政本党民主化の矛盾~

1列の関係(⑧⑨)~大石正巳、反吏党から野党大同団結へ~

(準)与党の不振野党に対する懐柔、切崩し(⑧)~立憲政友会の他党派切崩し工作~

新民党(⑧)~唯一の野党~

野党の2択(⑧)~憲政本党の内部分化の進行~

1列の関係2大民党制第3極(⑧⑨)~1列の関係を崩し崩し得るもの~

(準)与党の不振野党の2択(⑧)~鉄道国有化法案と大同倶楽部の内部対立~

(準)与党の不振(⑧)~佐々の死と大同倶楽部の変化~

(準)与党の不振野党の2択野党に対する懐柔、切崩し(⑦⑧)~大同倶楽部の分裂~

(準)与党の不振1列の関係新民党(⑧)~郡制廃止案と非政友会連合~

第3極(⑧)~猶興会の不統一~

(準)与党の不振新民党(⑧)~塩専売と左右両極~

1党優位の傾向(⑧⑩補論)~貴族院の政党化の兆しと優位政党の危機における強化~

1列の関係2大民党制(⑧⑨)~鳩山和夫の移動~

(準)与党の不振1列の関係(⑧)~桂園時代の「野党吏党」の立場~

第3極(準)与党の不振1列の関係(⑧)~吏党系と民党系の接近~

野党の2択(⑨)~改進党系の山県-桂系への接近~

(準)与党の不振(⑩)~政党的吏党と増税~

1列の関係(⑩)~内閣不信任案と非政友会勢力~

新民党実業派の動き(⑩)~財政の古くて新しい対立軸、郡部と市部~

第3極(⑩)~予算案、増税案に対する第3極の議員の賛否~

1列の関係2大民党制第3極(⑩)~4極から2極への歩み~

実業派の動き1列の関係(⑩)~実業派「復活」の兆し~

新民党⑩~同志研究会系の政党化への動き~

(準)与党の不振(⑩)~吏党系と減税運動~

新民党第3極(⑪)~政界革新同志会について~

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